城東町の成立
  城東町内の風俗街はもとは海であった。そのことを知る人はあまりにも少ない。
このページでは希少な資料と口伝から、その盛衰と風雪の歴史をまとめてみました。
         
東浜港の誕生
 

1640年(寛永年間)頃初代高松藩主松平頼重により藩の商港として誕生した。開港にあたり行われた埋め立て工事は難波仁左衛門と助六という二人がその官許を得て工事に当たった。つまり正月の10日恵比寿で信仰を集める東浜恵比寿神社ももとは海であり、当時海水は今の井口町辺りまで入っていた。開港後は他藩の商船が入ってくるようになり、高松藩としてはいわゆる「讃岐三白」綿、塩、砂糖が六百石積みの荷船数隻を使って、江戸、大阪その他の諸国へ輸出ができるようになったのと、輸出産業には藩も力を注いでいたため、鍋釜から陶器、木綿、茶、たんす長持、と多角的に産業に推奨し、業者には資金の貸し出しもしたと「増補高松藩記」に記録されている。

 



百船(ももふね)千船(ちふね)港にかかり
海より陸より荷物はつどふ
高松市歌 三土忠造作詞より  
東浜町の家並みと異人館
  この町には東浜恵比寿神社のほかに、つぎの様な建物や商家がたった。高松臨港倉庫梶A高松造船所、讃岐肥料(この会社は難波清平が創業。高松の肥料会社中の名門であった)、難波一族の宅地、同一族の店舗と倉庫、米問屋金谷嘉七、種類販売永木清太郎、倉業藤谷(東浜港の自治につくす)、船舶塗料中橋源太郎、高松銀行(百十四銀行東浜支店)、浴場エビス湯、中橋郵便局などであるが中でも廻船問屋の泉叉平は明治中期に洋式二階建ての洋館をつくった。当時としては珍しい洋館で、町のひとから”異人館”と呼ばれた。叉平没後は町内の集会所に使用され”東北倶楽部の看板がかけられた。この建物は昭和20年の高松空襲まで永く残っていた。また難波一族は現在の渇チ藤陸運と轄$トヨタ一族(創業者三代目清平)である。
         
風俗街の誕生
  明治五、六年頃、七星勘四郎(弥兵衛)が今の東浜恵比寿神社より北方を埋め立て工事を行って生まれたのが新地(北の新地)である。またこの地に八重垣の名がついたのは次の歌が出典といわれている。
 

夕されば 八重の潮路を こぎいでて
東の浜にはつもる百船

○ヤエ垣とあるのが現在の城東町風俗街(大正六年頃)

 





またその名は八重の石垣を積み重ねて海中から生まれた新地なので、八重垣となったのであろうか。そしてこの地に遊郭街が誕生したのは明治十年頃で、そのころの八重垣は、高松市史によると、黒岩楼、吾妻楼、菊寿楼、小柳、入船、布袋、旭楼、久栄楼といった茶屋(貸し座敷)であった。おそらくこの港に寄港する、若い船乗りさんたちは、潮の香りただよう八重垣の上に、立ちならんだ女の城から、こぼれる薄紅のランプの光に身も心もときめき、遊里をめざして上陸したものであろう。

         
街中の施設
 

明治二十七、八の日清、三十七、八の日露の両戦争に好景気の波がこの街にも訪れた。八重垣の茶屋はしだいにその数が 増し、まさに不夜城のにぎわいであったという。そして現代とちがうのがこの街につきものであった「花柳病」である。今であれば、医学の発達と抗生物質により完治できるものであるが、市当局も放置できなくなったのか、明治四十年この街内に香川県立高松花柳病院(後に八重垣病院と改称)が設置された。当時のベット数は二十七、院長以下三名の陣容であった。院長の長尾崎卯一は、死ぬまで、この検梅医を勤めていたが、それが高松市の嘱託なのか、この街に雇われていたのかは、わからなかったらしい。

         
戦前の全盛期
 
大正末期から昭和初期といえば、この街は全盛期を迎えた。三十八軒の遊郭が、軒をならべてひしめき合い、遊客を呼び込んだ。 主な店は、旭楼、入船、初日、三亀、寿、幸松楼、花の家、松月、菊水、敷島、國米楼、久富、辰巳楼、やよい、一力、末広、 東海、香月。である。四国の玄関口高松の港がすぐそばにあるだけに、集客は四国全県の京阪神に行き来する商人たちや、四国内に 出張してくる当時のビジネスマンなどと、従来の船舶層に増して、その繁盛ぶりはよく年寄りから耳にするが、その時代は 今と違って京阪神から松山や高知にその日の内に帰れる事はできなかったので、交通ダイヤも街にとっては有利な条件であったのであろう。 つい近年まで高松駅周辺にたくさんの旅館があったのも、いまさらながら納得できる。 そして現在の城東町もこの歴史があればこそ、今も周辺他県の遊客も訪れるのである。
戦前の全盛期頃の地図
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高松大空襲
  昭和二十年七月四日未明、高松は米空軍B29戦略爆撃機百十六機による傷痍弾攻撃により、被災地域は高松の約八割は焦土となった。城東町もほとんどが焦土であった。住民はほとんどがすでに疎開しており、人的被害はなかったものの、年配者の話によると、「帰ってきたら、もうなんちゃ無い、家もなけりゃ、女子(おなご)の一人もおらなんだで」の一言であった。それから街内の人々が帰ってきたのはいつ頃であったのかは定かではないが、翌年追い討ちをかけるように南海大地震があったので、復興は昭和二十二年以降と推測される。
         
現代の城東町
 

戦後まもなくから復興されたといわれるが、あれだけの戦争だっただけに、不明者や廃業と店舗数はかなり減少したと思われるが、池田内閣の高度成長時代までに十数店は復興したみたいである。ただ落ち着いた頃にやってきたのが、昭和三十一年の売春防止法である。その時の対応は城東町はおろか全国の遊郭街はどう対応したのかはわからないが、しだいに当時ニューウエーブであった「トルコ風呂」(現在のソープランド)形式に転換していったのであろう。ここでわずかな口伝から店舗の変遷を記することにしよう。

第一幸松楼→僕の家本館・別館→皇帝→銀馬車→BITEKI LAND REGEND+ピアニッシモ
松月楼→Gold ミカド→NIGHT LAND DAY
辰巳楼→Gold 館AmouageAngel Heart
元禄→鎌倉御殿→石庭
入船→メンズクラブ ラ・カルティエ→バルボラ月兎 club J1
辰巳楼→重役室→メンズクラブ モンロー→貴族院→高松特別室(休業中)
鳥羽屋・羽衣→千姫→金閣寺→江戸城→クラブさがの和楽
可しゅく→大学院→鹿之助→AYUAYU倶楽部(ヘルス店)→Nation(ヘルス店)
大名→金瓶梅
ブラジル→多恋人
國米楼→クイーン→英国屋Rao
大松→王朝ラ・プラ−ジュ
雅叙園(廃業)→ぷるぷるほうす(ヘルス店)
花の家・いろは・輝せん→現在のK2ビル
かぐや姫→現在のベイサイドビル
菊水→現在のK2ビル西隣空地
敷島・五十鈴→現在のK2ビル駐車場
松月楼→現在のパラダイスビル
新幸楼→現在のプレイスポットK2ビル(お湯っこクラブ、ドゥースカフェ、クラブイノセント)
松一(一部)→倉庫→087ビル(UNO Club)(休業中)
日本橋(休業中)→しらゆき姫
三日月→現在多恋人前の民家
第二幸松楼→現在の王朝・英乃国屋の間の空地
寿→石庭南隣のマンション
やよい→Angel Heart東隣の民家
松一(一部)→現在の石庭の前の駐車場
いわき→石庭南隣
久富・久幸・松ヶ家・一力・(廃業)

 
 
作成にあたり
貴重な資料・文献等のご提供と町史についてご指導いただきました、恐くも東浜恵比寿神社 三好克彦宮司様をはじめ地元の皆様には厚く御礼申しあげます。ありがとうございました。
 
残されたフォト
 

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